え?まじで?も好きのうち

  僕の精神は割と屈強だと思う。浪人をしてたときは予備校で大した友達なんか出来なかったけどそれなりに一年間勉強していた。今は就職は決まらないし、恋人とも疎遠になったり宜しくないことが続いているけど何故かとても穏やかな気分でいる。これは諦観のあらわれだろうか。

 でもふとしたときに今置かれている様々な現状を顧みて、「え?まじで?」と思ったりもする。しかしこれは僕の人生においては常に付き纏っていた感情だから特筆すべきことではないのかもしれない。多分だけど、今仮に就職が決まってて恋人と順風満帆でも「え?まじで?」と思う瞬間はある。そんなものは幸福に対する逆張りな訳でそれをする自分を気持ち悪く感じる。今の不幸を不幸のまま嘆ける自分の方が好きかもれない。こういう思考が出来るところが精神が屈強である所以なのである。

うま煮とかわ煮

 昨夜、「たらこのうま煮」というお惣菜を母が買ってきた。たらこを甘塩っぱい味付けで煮たものである。この名前に違和感を感じるのは私だけだろうか。うま煮かどうかはこちらが決める。自称をするなと思う。こういうイキリは萎えてしまう性格なのである。腕試しをする意味でたらこを一切れつまんでみる。うまい。米にも合うし酒にも合う良い味付けだ。せっかくうまいのだからわざわざイキらなかったらもう少し気持ち良く食べれたのに。

 こういうことは日常に溢れている。皆さんは村方ののかちゃんをご存じだろうか。犬のおまわりさんを達者に歌う姿が大バズりしたかわいい娘である。

童謡/いぬのおまわりさん/第35回童謡こどもの歌コンクール こども部門・銀賞 - YouTube

 

この姿を見てなんてかわいいのだろうと心を躍らせたのはもう過去の話である。最近はCMやらYouTubeでそのかわいさが作為的に切り取られている。

“ののちゃん”村方乃々佳ちゃんがラップに挑戦 可愛らしい振り付けも披露 『ZABOON』新TV-CM「ザブーンのうた」篇&メイキング - YouTube

 

いうならば「村方ののかのかわ煮」が店頭に並んでいる気分である。品名は「幼児」で十分である。かわいいかどうかはこちらが決めるのだから。

【日記】堕落への道のりは遠い

はじめに

ここ最近私は半ば意図的に堕落を仕向けている。ここでは最近行った2件の堕落的試みを語りたいと思う。それは坂口安吾堕落論に従った結果である。解釈違いも甚だしいかもしれないが。

ソープランド

「楽しくないさん最近どうなんですか?」そんな後輩の言葉がきっかけだった。そこから悪ノリが加速してソープランドに行くことを決めた。どう加速したらそのような話になるのかは私が知りたいところである。そしてその場で今度行く約束もした。日を改め、酒酔いが抜ける。そうするとその約束に対する後悔が大きくなっていた。しかし口だけの人間になりたくないというちんけな抵抗から連絡をとった。しっかりその約束を果たしたのだった。そして果てたのだった。とても楽しかった。うーんこういうのは格好つけても仕方ない。あえてとにかく楽しかったと声を大にして言う。この場合、行動自体は極めて堕落しているのだけれど、約束を守るという堅実性も持ち合わせている。次の日の朝すっからかんになった財布を見ると自分は堕ちきれない性分であることを実感した。別に賢者とかじゃないんだからね。

オールナイト

次の堕落行動はオールナイトのイベントに参加し、朝まで踊り明かしたことだ。結果から言うとこれも特に堕ちきれなかった。そこでは好きだったアイドルが復活ライブを行っていたのだがそれを見て酷く感傷的な気持ちになった。そのアイドルグループは私が高校生だったときに知り、ライブに行くことなく解散してしまった。以降もずっと曲を聞き続けて、私の精神的支柱になっていた。そのことは以下の記事で語っている。

 

kuma2909.hatenablog.com

 

今よりもまだまだずっと幼かった高校時代の憧れを回収し、堕落なんかしている場合ではないという気になった。そのイベントには女性の友人と一緒に参加したのだが、ライブ中もみくちゃになっても身体に極力触れないように努めた。そして帰りの電車では感傷的な気持ちについて語り、お互いの健闘を祈りつつ別れた。堕落なんて一ミリも無かった。しまいには帰った後に数時間の仮眠を取ってから、せっせと卒業論文の執筆に勤しむ始末であった。なんとも情けない話である。

 

堕落するには?

 坂口安吾堕落論では堕落するときの堕ちきれない人間の弱さに注目し、そこから這い上がる活力を説いていた。しかし今の私は堕ちきれないというよりも、少しでも堕ちてしまうのが怖くて細い糸にしがみついているような感じである。堕ちる気も這い上がる気もない。そんな状態が嫌で堕ちようとしたのだが、自分の性分には逆らえなかったという話である。

 一度何もかも失うようなそういった状態になってみたい。万有引力の法則によって万物は下に引かれている。自重を支えようとさえしなければ地にひれ伏す他ない。であるならばこの手元にある、書きかけの卒業論文をゴミ箱に放り込むのが手っ取り早いだろう。しかしそんな簡単なことすら出来ないでいる。そもそも堕落を堕落として認識している者は堕落なんか出来ない気がするのは自分だけだろうか。

胸が締め付けられる瞬間

 僕が胸がギュッと締め付けられる瞬間は恋でもなく、友情でもない。子どもが純粋な思いで何かを欲しがるところを見たときだ。これは時々思い出すのだが、まだ小学生だったころに家族で小さな旅館に泊まったことがあった。僕には5歳離れた妹が居る。当時4歳の彼女が部屋の冷蔵庫にあったラムネを持ってきたのだ。だがそれは有料である。母親はそれに気づくなり、何も知らない妹に否定的な言葉を浴びせていた。結局しょげた顔で元の場所にラムネを戻す彼女。純粋な欲求が打ち砕かれた瞬間である。

 ある程度大人になってくると純粋な欲求というものが一切なくなる。もちろん何かが好きで行動することもあるが大抵の場合そこには邪推がつきまとう。例えば服を買うにしても、純粋に「良い!欲しい!」じゃなくて「これ着たらモテるかな」みたいな思考が介入する。そうなるとその欲求の尊さみたいなものが一気に無くなってしまう。身の回りがチープな感動ばかりになる。

 だから街で何も考えていなそうな子どもを見つけるとワクワクして眼をやってしまう。胸が締め付けられる。少年少女の愛くるしさとその儚さにグッとくる。それはそれは複雑な感動だ。もしかするとその瞬間を側から見たら眼を輝かしていたのかもしれない。でもこうやって深く考えてしまった時点で他の思考の介入は免れない。こうやってまた一つ一つ目の輝きを失っていくのだろう。その成れの果てが大人というものである。つまり自分を客観視することは毒だということだ。

お父さん似ね(精神的に)

 父は僕に似てる。いやここは僕は父に似ていると書くべきか。人と上手くやっていけないことを必要以上に悩む。そして自分の人生にそういう感覚が染み付いてしまって自己嫌悪に再三陥ってしまう。父はたまに弱気になってそんな気持ちを僕に吐露する。そして自分が如何にだめなのかを喋り、似た僕の身を案じる。そんなものは余計なお節介というものである。私は自分が如何に内向的なのかを熟知しているし、内向的なりに捻くれて生きている。父を見ていると僕が捻くれないで素直に生きたルートを見ている感覚になる。同じような性格でも違うルートを選んだ人間同士は絶対に相容れない。なんなら全く違う性格同士の方がずっと上手くやっていけるのだ。父は僕の身を案じると同時に嫌悪する。内向的で捻くれた息子を哀れみ、自分のルートに矯正させようとする。内向的ならせめて良い人であれといった塩梅である。

 父が僕にそうするように僕も父に哀れみをもって接してしまう。だからといって反抗期みたいに、舐めた態度を取るわけではない。僕ももう大人だ。そういうルートを選びながら僕を育てたことについては一応尊敬している。精神的にどういう風なルートを選んでさらなる大人を目指すべきか、それが当面の課題になるわけである。良い人であれという命題にたいして、アンチテーゼとしての捻くれ、そこを超越するような回答を期待したいものだ。

卒論執筆は面白いが…

 ここ数ヶ月私は卒論の執筆に傾倒している。私の研究はフィクション創作におけるフリーカルチャーの可能性を探るものとなっている。その分野に興味がある人以外からは「は?」と言われる内容である。その分野に見識があり、私のテーマを刺激してくれた教授には感謝をしている。研究は面白い。なぜならば2年以上同じテーマについて考えているのにも関わらず、未だに新しい文献を読むと自分の考えたことのなかった見方が出てくるからだ。自分の主張を確立する、新しい見方を知る、主張を解体する。こんな終わりのないループに誘われる。自分の領域から一歩ずつ外に出ていくような感覚は研究以外じゃ中々味わえない。

 しかしながら、たまにふと思う。この行為に何の意味があるのだろうかと。この前、面接で卒論のテーマについて深掘りされたことがあった。私も馬鹿じゃないので、テーマの具体例を挙げて分かりやすく説明した。すると担当者はその中身をさらに聞いてくる。仕方なく抽象的な概念を交えて喋るのだが、相手は「は?」と言いたげな顔をしていた。うまく説明出来ない私が悪いのか。そもそも2万字かけてまとめようとしている内容を数分で聞こうなんて傲慢過ぎはしないか。しかしそれも仕方ないことなのである。相手は生産的な存在、社会人様だ。そんな方の前で非生産的なカルチャーの話をしたのが間違いなのだ。生産的に聞こえるように話せなかった私の負けなのだ。あるいはもっとお利口に、誰でも分かることをテーマにしておけば良かったとも思う。興味がなくてもなんとなく活動できる人間に成長してたらとも思う。

ハロウィンのダサ思い出

 昨日はハロウィンだったが、いつも通り卒論を書いて、面接を受けて、アルバイトに行った。多くの人にとってそれはいつもと変わらない日である。これは一回生のときの話なのだがハロウィンパーティーなるものに参加したことがあった。

 当時私は大学デビューを目論んでいた。その想いは今となれば見る影もないがとにかく遊びたがっていた。そんな中で授業が一緒になった知り合いにハロウィンに行う宅飲みに誘われた。男女3対3のハロウィンパーティーである。私はもちろん二つ返事でその誘いに乗った。

 ハロウィン当日、私は18時まで授業があった。そのため彼らには先に始めてもらっていたのだ。今思えばそれが一つの間違いでもあった。授業が終わって勇足で大学の近くにある友人宅に向かった。途中で場所が分からなくなり、電話をかけて場所を聞くことになる。男のスマホに電話かけたのだが、スピーカーからは女の声が聞こえた。

「あー楽しくない君??早くおいでー。」

完全に酒で出来上がった声であった。そのふしだらな声に私の胸の高まりは頂点に達した。なんだかんだあって無事に友人宅に到着する。部屋は薄暗い間接照明で照らされていた。

「楽しくない君〜!」と不潔な声がする。

目をやると仮装をした男女が居た。ミニスカポリスにナース、デビル。男はどんな格好をしていたのか覚えていない。記憶する意味がない。結論から言えば私にとってその空間は卑猥過ぎたのである。心の戸惑いを隠しながら、「俺が授業受けてる間に随分と楽しそうにやってんね」と発する。そしてスベる。なんとも言えない微妙な空気になる。彼らに追いつくためにその場の酒をがぶ飲みする。

「楽しくない君、ビールすきなの?珍しいね。」とビール好きの女に喋りかけられる。実に一回生らしい会話である。

 結局私はベロベロになっても女子にドギマギし、終始エロいこと考えていないアピールをしながら太ももを肴に酒をちびちび飲み続けた。この日私の大学デビュー計画は完全に破綻したと言える。そういう星の下に生まれていないことを思い知った。現実を教えてきた彼らを恨んでも恨みきれないだろう。余談だがその時に女子に勧められてインスタグラムのアカウントを作った。それは今も続けている。その点のみ彼らに感謝したい。

 

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