撞着な女友達の定めと見定め

 生き始めてから早20年弱、自分の秘めたる才能への空想も薄れてきたこの頃であるがふと気付いたことがある。私には生き始めてから女性の友達というものが出来たことがないのだ。私はこれを悲観的に捉えている。世の中には異性の友達の不確か性を問う議論が多くなされている。その議論に対して私は「人による!」という一言で返答したい。世の中には異性の友達が出来る人と出来ない人がいるのである。もちろん私は後者に属する。そしてここで言う異性の友達は異性の知り合いとは全く非なるものどころか正反対の性質を持ったものと言っても過言ではない。

友達とは? 

 まずベースとしたい考えは肉体関係を望むか否かというものである。つまり私は友達を性的な対照とは全く関係のないものとして定義したい。これは私の中の性的な関係を極度に汚く薄いものに感じてしまう価値観の押し付けになってしまうかもしれないのであくまで「私にとっての友達」ということで聞いてほしい。この考え方の根本にあるの子供の交友である。子供の交友関係は利害など全く関係のない所に生まれる。すなわち異性であってもそれを意識することなく接することができるのだ。私はこのような交友関係こそ世界で最も崇高で、根本的な友達のあり方だと感じる。そして私の定義する根本的な友達のあり方と照らし合わせると「女友達とセックスしたい」というのはとてつもないパラドックスを孕んでいるのだ。だからこそ友達と性はなんとしても切り離したいのだ。友達にこのような定義を付けることによって急に異性の友達の存在が疑わしくなってくる。特に思春期真っ只中の男にとってこれは大きな障壁となるだろう。

 

思春期はクソだ

 私の周りには一切女友達がいない。裏を返せば女の知り合いは漏れなく女性として意識しているのである。いまとなってはもう定かではないが小学校低学年くらいまでは純粋な異性の友達が居た気がする。思春期というものはとても厄介だ。まるで友達を食い殺すモンスターのようだ。私は彼にいくつもの友達となるはずだった女を消されている。いっそのこと女に生まれてこれていればと思うこともあるがそれはそれで今度は「男友達ができない」と嘆くことになるだろう。性欲がない自分を想像することができないので男か女かなどは大した問題ではない。第一、汚い男の何かに心振るわせるなんていうのは考えるだけでゾッとする。

 この悲劇を終えるためには思春期を終えなければならない。大人になればこの問題は解決するのだろう。しかしそれでは遅いのだ。私はこの大学生という華やかな時間を存分に楽しみたい。もっと真なる交友を持って将来への糧としたい。

 こんな風に心から異性の友達を望んでいると思っていても心の底では女性への性的関心が止まないのである。性的関心しかないからこそ私は女性との友情に憧れる。友人のように接してくれる女性に強く惹かれてしまう。しかし私がそのように意識した時点で彼女はもはや友人ではなくなってしまうのだ。どれだけ矛盾を孕んでいようが私は「友達みたいな女性と恋愛したい。」と声高に言いたい。こんな出鱈目な考えが自分の中で浮かんでしまうなんて本当に思春期はクソだ。

にほんブログ村 大学生日記ブログ 文系大学生へ
にほんブログ村 jQuery('.icon-hamburger').on('click', function() { if(jQuery('.menu-container .menu').css('display') === 'block') { jQuery('.menu-container .menu').slideUp('1500'); }else { jQuery('.menu-container .menu').slideDown('1500'); } });