譲り合いの精神って大事ですよねー

  私が”母親“という言葉を発したときそれは私を二一年前にお腹を痛めて産んでくれた人を指し示す。“母親”という概念は普遍性を持つものだけれど、私の言う“母親”はある一人の人間の意味しか持たない。そういう普遍的なものを個人のものにしてしまう不正行為はあらゆるところで起きていて、私はついついやってしまう。誰にでも愛想良く接する女を好きなってしまったりするのも不正行為の一つである。誰にでも愛想の良い女の笑顔には特に深い意味はなく、結局は普遍的なものである。そんな公共物に等しいものを私有しようとしたらそりゃあバチが当たるのも当然である。誰にでも愛想良くする女はみんなの“母親”であって決して私の“母親”ではないこと肝に命じて生きなければいけないと思うのだ。でもたまに公共物を強引に私有してしまう輩もいるのだから恐ろしいものである。そういうところを見てしまうと私も公共物に対してヨダレを垂らしてしまうのだが女の笑顔が余りにも公過ぎて気が引けてしまう。私は幼い頃から公園の遊具は他のお友達にも譲ってあげなきゃいけないと心から思っていた。しかしそれは正しくなかった。二一歳になった今周りを見回せば公園の遊具に落書きをしていたであろう元糞餓鬼ばかりが良い思いをしているではないか。今からでも遅くない。試しに明日ブランコをバキバキに折りに行こう。私は大人なのだから。

 

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