本ブログではNTRについて度々語ってきた。NTRに関する記事が本ブログのPVのおよそ4割を占めており、寝取られブロガーの名を欲しいままにしている。(そんな汚名は今すぐにでも返上したい限りである)
NTRの本質
NTRは高尚な助平であるというのが、私の主張の一部だ。しかし不幸な目にあって性的興奮を覚えるという謎めいた現象について今まであやふやなまま話を進めてきてしまった。ここいらで一辺そのあたりを明確にしておきたい。
NTRというものに関する私の解釈を述べたいと思う。一般的なまたは原理的な考え方で言えば「交際している相手が、第三者と性行為を行うこと」をNTRと呼ぶ。
①ヒロインとの交際
②ヒロインの第三者との性行為
この二つの要素でNTRが語られることが多い。しかしNTRの本質というものはここにはないと私は考えている。これは狭義的なNTRだ。確かにNTRとは本来「寝て、取られる。」の意味だが、現在はNTRの意味合いがより広くなっていると私は思う。
では①、②の要素を広い意味合いで捉えていきたいと思う。
①寝取る対象となる者との交際
交際している人とは詰まるところ、好きな人のことである。そこに交際があろうとあるまいと、本質的には同じである。またこの交際がない状態で好きな人が他の人間と親密な関係になっていることを知るというシチュエーションをNTR(寝取られ)とは区別してBSS(僕が先に好きだったのに)と呼ぶ流れもある。ただNTRもBSSも根本的に好きな人を取られるという意味では一致しており、そこを区別する意味はないと考える。
②第三者との性行為
これもまた広く解釈すると失恋のことだ。必ずしも性行為が存在する必要はない(多くの成人向け作品では例外なく性行為が存在するが)
例えば私がNTRの傑作として強く推す新海誠監督の秒速5センチメートルでは主人公が少年時代から恋心を抱いていた、幼馴染が他の男と結婚をする描写がある。そこにはセックスシーンはない。もちろん類推すると、そこには性行為を想像することも出来るがなにもそこを楽しんでいるわけではない。性行為よりもむしろ、その恋が叶わなくなってしまった切なさに魅力を感じるのではないだろうか。
①、②を広義に見ると次のようになる。
①ヒロインのことが好き
②ヒロインに他の相手が出来たことで失恋をする
というわけで「好きな人に他の相手が出来てしまい失恋する」というのが私のNTRの解釈だ。
寝ていなくても、取られていなくてもNTRが成立するというのは少しおかしな話ではあるが、NTRという言葉と寝取られはもはや乖離していてより広い意味で使われている現状を考えるとNTRをこのように広く解釈するのが妥当ではないだろうか。
NTRの本質にあるのは恋人や性行為の有無ではなくて、想い人が他の人間に心ないし身体を許してしまっているという切なさである。「それは単なる失恋だ」と思う人がいればそうなのかもしれない。しかし私はNTRの何処が良いのかという素朴な疑問に対してはこの「切なさ」というものを推す。少なくとも交際相手の性行為描写などではない。その「切なさ」に思いを馳せることで高尚な助平になり得るわけだ。