精神向上のための筋トレ

長過ぎる前置き

 ここ数日なぜ私の人生はここまで堕落しているのかということについて考えていた。人々がコロナ禍で自粛期間と呼ぶものは私にとって引きこもり期間と化している。そもそも私は欲望に忠実なのだ。ベースとして私はだらけきったことを幸せに感じる傾向がある。なにもせずにぼーっと絵空事を思い描くだけで十分楽しめる。子供の頃からそうであった。小学校の帰り道、1人で少年ジャンプ的な自分だけのバトル物語を考えながら歩いていた。そのせいで幾度車に轢かれかけたことか。電柱に頭をぶつけることもあった。そんな子供が居ることは別に珍しいことじゃない。だけど大抵の場合その子供が大人になるにつれてそんな馬鹿みたいな空想はしなくなる。それがやめられなかったのが私の人生がうまく行かないきっかけであったように思える。でもそれだけなら別に良いんだ。むしろそんな簡単なことで幸せを感じることが出来るならそうなった方が良い。そんなある意味充実している生活を送りながら私は横目で遊び呆けているような人たちを見てしまう。そうなると空想で楽しんでいる自分が馬鹿のように思えてきてしまって悲観的になる。そして嫉妬する。それでいて先程の「遊び呆けている」という言葉からも明らかなようにそういう人たちを見下す虚栄心も持っている。この嫉妬と虚栄心が諸悪の根源である。

 なぜ堕落してしまったのかという話に戻りたい。これには何か私の中で決定的に不足している要素があるような気がする。私が堕落する瞬間は他者を見て悲観し嫉妬するときである。そのときに私の中にある「だらけきる幸せ」というものが完膚なきまでに崩される。そんなことを考えながらふと「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉を思い出した。私は生涯、運動というものをまともにやったことがない。つまり生涯不健全な肉体を手にし続けているわけである。いや幼少期はあまり肉体の差異がないので健全だったと言えるだろうか。肉体の健全さが相対的なものであるのなら幼少期以外は不健全な肉体であった。では今からでも肉体を健全なものに変えることで自分を堕落から救うことが出来るのではないだろうか。

筋トレを始めた

 尋常ではなく長い前置きを踏まえて本題に入る。私は筋トレを始めた。筋トレとは筋肉トレーニングの略なのだろうか。それとも筋力トレーニングの略なのだろうか。筋トレという言葉はなぜか省略されたものしか聞いたことが無い。筋トレする人間はそんなことに目も向かない程バカだということなのだろう。おっとまた虚栄心が出てしまったよ。私が筋トレによって目指す地点はムキムキマッチョではなく健全な精神だ。具体的にはワイワイはしゃいでいる同年代の若者を見て嫉妬をしなくすることだ。ここで一つ問題なのは健全になりすぎた結果私が「だらける」ことをやめてしまったら本末転倒なことである。万が一にもそんなことはないが一応留意しておく必要があるだろう。それこそ本当に健全な精神と言えるかもしれないが私は嫉妬を止めたいだけで怠惰自体をやめたくはないのだ。だから「そこそこ」健全な精神を目指したい。「勉強し過ぎて東京大学に入学しちゃったらどうしよう。そんなガリ勉になりたくないよ。」という心配くらい馬鹿げた心配である。ちなみに私は今筋肉トレーニングないし筋力トレーニングを行ったあとにこの記事を書いているのだが珍しく1000文字超えの記事となった。筋トレ恐るべし!

 

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