death of 童貞

 僕はまだ近しい人が死んだことがない。誰かが死んで大きく気に留めたことがない。中学生のとき友人が僕の家に泊まりにやってきたことがあった。季節は丁度今くらいで18時でも日は完全に沈み真っ暗になっていた。そんな暗闇の中自転車のライトも付けないで友人がやってくる。僕と母が玄関で友人を出迎えると焦点の合わない目で「父さんが死んだ」と言った。母は家に送るために直ぐに車を出した。3人掛けの後部座席の真ん中を空けて友人と2人で座る。声を押し殺しているようなのに、全くもって抑えられない煩いくらいの泣き声だけが車内にある。僕はずっと何も声を掛けることが出来なかった。

 父親が亡くなったことの抑えようのない苦しみは理解できた。ただ数日もしたらそんなことは殆ど忘れて僕は中学に通っていた。こうやってブログで書いてみて久しぶりに思い出したのだ。

 なんでこんなことを思い出したかというと僕の祖父が間も無く死んでしまうからだ。二等親でこんなに辛いのだから一等親は遥かに辛い。単純計算で倍辛いのか?死の辛さは等親に反比例するんじゃないだろうか?うーん数学が苦手だからよく分からない。そこは道徳や国語で解決しろという批判は受け付けない。

 小学4年生のときに僕の両親や祖父母が僕が生きてる間に死んでしまうことに気付いた。それは世紀の大発見だった。怖過ぎてその日は母親の布団に入っていった。僕はシリアスが苦手だった。ドラえもんの劇場版が通常回と比べてシリアスだから好きじゃなかったりした。そんな柔い子どもには驚異的な現実だった。それから13年間幸せなことに三等親の間で人が死ぬことがなかった。あってもペットのハムスターのぽっぽが死んだくらいなものだった。僕は死童貞なのだ。はじめては心を乱すものだ。この先はきっともっと楽なはず。

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