オシャレはダサい

 最近、衣類をいくつか買い足した。モノに拘りを持つというのに憧れているので少しだけ高いものを買った。買った服に着替えて姿見の前に立つと、カッコいい服を身にまとった青い大学生がそこに居た。服とは空虚なものである。拘りのあるものを着ても自分は何一つ変わっていない。特に顔面なんかはボンクラそのものである。とはいえなんの拘りもない、毛玉だらけの洋服を着ているとそのボンクラ度合いに拍車がかかるので、服を買わないわけにはいかない。なぜ我々は服を買ってしまうのだろうか。

 衣服は自己表現の手段という考え方があるが、私はこれに全面的には賛同出来ない。だいたいこれを言うのは服好きを語る人間である。では服好きが服で表現している自己とはなんだろうか。「服が好き」という自己だろうか。しかし考えてみたら可笑しな話である。服が自己表現だとしたら、「服好き」は「自己表現好き」である。自己表現が好きということを自己表現している。つまり何も表現出来ていないのである。万人が感じるファッションが趣味という人に対する違和感の正体はここにあるように思える。

 では私みたいな服好きではない人間はどうやって衣服と向き合うべきだろうか。私のアイデンティティの一つとして「書くことが好き」というものがある。これははたして衣服で表現できるのだろうか?作家の服はお洒落に無頓着なイメージがある。服に時間をかけている暇があるのなら書くことに使いたい的な。では服への拘りを止めて、自己表現を放棄することが自己表現なのではないだろうか。しかしそうすると服に拘りをもたないという拘りが生まれてしまう。つまり結局無頓着ではなくなる。

 その解決策としては無作為に与えられた服を着るという手段がある。例えば友達や恋人、家族に服を買って来てもらう。しかしこのときに生じる問題は、彼らがお洒落な服を買ってきてしまう可能性があるということだ。これでは結局無頓着を表現することが出来ない。

 服装というものは結局どのように自己表現しようとしても結局あらゆる方向で矛盾が生まれてしまう。だからこそ何も考えないで着るのが良いのだと思われる。とにかく私はお洒落になろうとしてお洒落な服を買う連中が嫌いだ。

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