僕のミトランティス

 水戸駅近くを流れる桜川とその河川敷。その水面に東横インの青いネオンライトが反射する。会社からの帰り道は遅くなってもそんなワクワクがあった。夜のランニングに精を出すおじさんや河原で愛を囁くカップル、それら全てが見知らぬ都市に来た僕を歓迎してくれているように思えた。そしてそういった都市の風景は桜川に映って流れと共にゆらゆらと消えていく。だから僕はここをミトランティスと名付けて楽しむことにしたのだ。

 引っ越してきて半年、ミトランティスという架空の都市が段々と現実味を帯びた水戸になってきている。あれだけ特殊だった桜川の流れも今じゃただの通り道だ。この現状を「ピーターパン症候群を脱したぞ!」と好意的に受け止めるべきか、それとも「つまらない大人になってしまった」と嘆くかが悩みどころである。もうミトランティスには入れないのだろうか。

 仕事をサボることもなく泥臭く営業回りをし、疲れて泥のように眠る。休日は部屋の片隅に鎮座し、その姿はまるで泥団子のよう。生活が仕事に支配されている。僕が勤める会社はブラック企業と呼ばれる類のものだ。僕が会社を出る頃にはいつも22時を回っていて、尚且つ残業代もない。そして精神的に参った社員は次々と辞めていく。昨今ブームの持続可能性の逆をいく会社、泥舟に乗ったような気分だ。

 だけれど、この台風で荒れた天気の中を僕は悠々と車で走っている。一歩裸足で外に駆け出せば少年時代を思い出す事ができるだろう。あの時は猫のフンの匂いがするバッチい砂場で汚れまくったものだ。泥臭い営業も流石にフンの匂いはしない。泥だらけだがドロンコではない。ドロンコに憧憬を持つなんて、案外僕はまだまだ症候群真っ只中なのかもしれない。またミトランティスに行けるその日まで、子供時代のことを考えておくにしよう。

ヒップホップと新海誠

 僕は最近ヒップホップにハマっている。ヒップホップは多義的だからひとまずノリが良い音楽にハマっていると言っておこう。何が良いって自分とは相反する気楽な思考と語り口調が腹立たしいけど羨ましい、という変な感情にさせてくれる。

最近お気に入りのハルカリのおつかれサマーの歌詞を引用してみたい。物語は真夏の紫外線が降り注ぐ陽気なビーチで始まる。そこにビキニを着たイケイケのギャルがやってくる。そして好みの男を見つけこう語る。

 

"突然視界に麗しの君 逆三ボディに 小さなspeed

素敵なspeech いきなりreach 

私は恋に落ちました peace!"

 

恋に落ちてピースしちゃう。思慮深さもカケラもないこの恋の心境に私は空いた口が塞がらなかった。ここで比較として新海誠監督の秒速5センチメートルの中で出てくる恋文を引用したい。

 

“前略、高樹君へ。お返事ありがとう、嬉しかったです。もうすっかり秋ですね。こちらは紅葉が綺麗です。今年最初のセーター……“

 

 こんな塩梅で長々とやり取りが続く。それは高尚で、思慮深いもののように感じていた。しかしこれはあくまで新海誠というオタク気質な作家が抱く女の子の理想像なのだ。僕たちは恥ずかしいことに理想像をこういうところに置く。しかしその結果どうだろうか…“もうすっかり秋”になってしまっているではないか。夏が終わり、あの娘のビキニ姿など拝む隙もなくセーターを買い始めている。キモオタ的恋愛観は現実に即していない。普通の女の子はこんなまどろっこしいことを考えない。

 

そこであの歌詞が思い出される。

“私は恋に落ちました peace!”

恋とは僕ら童貞が思うほど大それたものではなく、案外こんな風に軽く始まるのかもしれない。もちろん僕はこんなヒップホップ女とは相容れない存在だとは思っている。はっきり言ってこんな女は大嫌いだし、仲良くなれない。ただこの決して相容れることのないフワフワした思考を、ヒップホップを通して知ることが出来る。そういった意味でヒップホップは魅力的だ

 

 

彼のことを考える

 どうしようもなくシャイな男の子が営業マンとして働き始めてもうすぐ半年が経とうとしている。営業を始めてみて分かったのは契約を取るのはすごく気持ちが良いということだ。商談の作戦を考えてその通りにことが進んだとき僕は射精と同等以上のものを感じる。己の快楽を追求した結果、僕は配属された北関東で一番成績の良い新人になった。しかし困ったことに、そのせいで変に上から期待されてしまっている。そしてより責任の大きい仕事を与えられる。期待されてないから伸び伸び気持ち良くやれてたのに。最近は窮屈でとにかく仕事がキツい。期待に応えようという邪念が快楽を邪魔している。

 

 僕は東京の実家から就職を機に茨城県水戸へとはるばるやってきた。実家ではベランダに面していてロフトベッドが部屋の半分を占拠する、そんな部屋が自室だった。ロフトベッドの下には僕の腰くらいの丈の本棚と祖父母に買ってもらった長い付き合いの勉強机が置いてある。そんな部屋で僕は勉強をし架空の世界の妄想をして、飽きたらロフトベッドに登って自慰に励んでいた。それが僕の普通だった。

 水戸に来てから僕は時々あの部屋の現在を思い浮かべる。すると今でもあそこにはもう1人の僕が居てシコシコとやっている様子が目に浮かぶ。天井の落書きをぼんやり見ながら自分のうだつの上がらない毎日を悲観している。昼ごろ目が覚めて母親が作り置いてくれたチャーハンを当然のように食べている。

 就職を断念した世界線の自分が今も実家に住んでいるんじゃないかという錯覚によく陥る。そいつは僕の7倍オナニーするし、家事もろくに出来ない。きっとあんま苦しんでいない。呑気なやつだ。そしてきっと奴は僕の現状を知ったら羨ましがる。残業代もロクに出ないけど毎日やることをやって、それなりに認められている。誰にも期待されていないあいつに比べれば幾分かマシに思える。窮屈だけれどそれなりに楽しい毎日なんじゃないかと思えてくる。僕はしんどくなったときは彼のことを考えようと決めた。

週末の有意義感

 お盆休みが色々と活動的だったこともあってか、今週末は家でダラダラと過ごした。日曜日の今日は死ぬほど睡眠を取った。体は気持ち良いのだけれども精神的にどうも鬱屈してしまう。昼寝から目が覚めると時刻はもう午後4時。四捨五入したら休みはもう終わっているようなものだった。回したまま放置してしまった洗濯物を干して、微かな有意義さを感じる。

 せっかくならば、その有意義さに拍車をかけようと思い自炊をすることにした。実に1ヶ月ぶりの自炊である。2合の米を炊いた。冷凍していた鶏むね肉を解凍して、一口大に切り刻む。コチュジャンと、醤油、砂糖、ゴマ油をめちゃくちゃに混ぜてタレを作る。今日は特別にそこに炒り胡麻も入れちゃうぞ。サラダ油を多めにひいて鶏胸肉を皮面から焼いてみる。しかしどうみてもパサパサな仕上がりになる。でも特製のタレをぶっ込んだらいい感じになった。

 そんな光景を見ているだけなのに僕の有意義ゲージはどんどん高まっていき、コチュジャンの少し焦げた香ばしい匂いがする頃に火を止めた。そして、ベランダに出て煙草に火をつけた。全ての有意義はニコチンに通じる。それは有意義を拡張する道具なのである。絶頂に達していると着ていたステテコの裾から入ってくる空気が十分ひんやりしていることに気付く。そういえばもう8月も終わり、世間では小学生が宿題に目を向け始める頃だ。気づいたらもう夏が終わっていた。例年なら、夏のボーダーラインを気にして惜しみながら夏が終わっていくのだけれども。こんな感覚は生まれて始めてだ。これが社会人になったからなのか僕が大人になったからなのかは分からない。

 甘辛い香ばしい胸肉と発泡酒を飲み、(煙草を吸ってから)その洗いものも即座に済まして、(煙草を吸ってから)その出来事をブログに書く。これにて僕の有意義を締め括ろうと思う。

頬のニキビ

 先日、僕にガールフレンドが出来た。仕事前に彼女のことを気にしながら駅前の喫煙所で煙草を吸っていた。

 

ついついまるで大したことがないように「先日おでこにニキビが出来た」みたいなノリで書き出してしまったが、そういう日常である。そこには感情の揺れ動きがあるのだが、それは恥ずかしくて嬉しいものなので機微の言及は避けたい。そうここでは構造上の理解に留めたい。

 

先々日、頬にニキビが出来た。おでこのニキビは何処か微笑ましい気がするのにこうやって頬を触りながら歩く姿はとても惨めに感じる。これがマスクのつけ過ぎで出来てしまったものであることを祈るばかりだ。

 

彼女は元を辿れば大学の知り合いであった。ただ一回昼ごはんを一緒に食べて、それからカラオケに行った。ただそれだけで特に仲良くなることもなかった。だから大学の知り合いという感は薄い。その後ブログを介して出会った?仲良くなった?知った?…なんと言えば良いのかわからないが、向こうがブログを始めてお互いのブログを時折読む。そんな仲になった。それを4年くらいやっていた。

 

そして社会人になってから彼女がお酒を飲んだ状態で電話がかかってきた。そこから彼女の為すがままにいつのまにか男女の関係を意識することになった。僕は彼女に流されている。もし彼女の流れが男女のそれじゃなかったら普通に友達としてたまに飲みに行く仲になっていたことだろう。あの日本当に相当量酔っ払っていたのかは定かじゃないけどそういう流れを作ってくれた彼女には感謝している。大喜びで流れに身を任せている。チョロい男楽しくない氏の姿がそこにはあった。そして今日に至る。

 

恋人になってから初めて彼女とデートをした。僕のチョロさを当然のように見透かしてこう言う。

「電話が私じゃなくてもついて行ってたでしょ?」

それは確かなことだった。パンチラインが過ぎるだろと思う。あるべきの「君じゃなきゃダメだ」なんてことは言えなかった。それはどう考えても嘘になる。ただ一つ言えることは「君じゃなきゃここまで心を開かない」ということだった。僕の大学生活は枠線だけがあって、ブログという鉛筆の濃淡を使って中身を埋めているというものだった。そんな虚無だが誇りを持っている生活を彼女は覗いてくれていた。そういう類の人間だと分かっているから僕は好きになることが出来るのかもしれない。パンチラインもヒリヒリして素晴らしい。

 

アニメを観れない

 社会人になってから僕はアニメを観なくなった。正確に言うと物語を第三者として見ること全般が苦痛で仕方なくなった。僕は社会人として物語性の薄い日々を生きているのに、アニメでは大々的な物語が進んでいる。すると相対的に僕自身の生活の意味が怪しくなってきて虚しくなる。

先日、僕は大学のサークルの後輩が主宰する舞台を見に行った。そこでもやっぱり同様の苦痛あった。その物語は恋愛ものだった。主人公とヒロインが相互に成長して、失ったものを取り戻すという流れが展開された。僕はそれをジーッと見ていた。演劇は物語の登場人物と同じ空間に居ることになるから、より虚しさが強くなる。そして同時に演劇を熱心に作る中で成長していく大学生という物語も一緒に上映されていた。以前は僕も大学生役で出ていたのだけれど今回は何故かOB役としてオファーを貰った。色々考慮した結界、役不足甚だしいので辞退した。二つの物語どちらに於いても僕は観客で、というか後半の物語には僕しか観客は居なかった。どっちの物語も面白かったけどね。

 

そんな訳で観客になるととにかく虚しくなるから、休みの日には一人称語りの小説を読むようにしている。Netflixも解約してしまった。小説は僕が物語の語り部として、登場人物として関わっているような気分になる。週末主人公、そんな塩梅である。

幸福は幸せなのか

 僕は最近色々なことが上手くいき過ぎている。仕事では新人の割にたくさん契約取ってスゴいねっていう評価を受けているし、私生活では魅力的な女の子とデートをしている。この前は東京の友達が水戸まで来てくれて川でバーベキューをした。大学生が幸せの頂点だと思っていた僕にとって、意外過ぎる出来事が広がっている。

 幸せなのはいいのだけれども、困ったことにブログに記述すべき事柄が無くなってしまったのだ。僕は不幸を語ることを生き甲斐にしてきた。幸福なんてものは語るほどのものじゃない。もちろん幸福の向こう側にある不幸について語ることも出来る。極端なことを言ってしまえば100年もしないうちに僕は死んじゃうのだからとてつもなく不幸だ。でもそんな荒唐無稽な不幸を語ることにどれほどの意味があるかは疑問である。そんな考えから「ブログに書くことがない」という架空の不幸を語っているのが現状である。

 ひとまず、幸福はそのまま噛み締めるとして、僕がそれらを失ったとき全力で惜しむ。そんな語りが出来たらと思う。幸福は不幸への踏み台、そう考えて大切にしていきたいと思う。

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