気にかけていた女子高生

 今朝、いつもの時間にホームで電車を待っていて、何気なく「そういえば、あの"ブス女子高生"いるかな」と辺りを見渡した。"ブス女子高生"とは最寄り駅から同じ電車に乗る、顔が大きくて、容姿的には少しアレなのだけれども電車内で誰よりも熱心に鏡を見つめて前髪を気にする女子高生のことである。異常な容姿への執着と、そんな努力虚しく隣のナチュラル風JKの方が可愛いという現実。その光景がなんとも、私をいたたまれない気持ちにさせた。

だから「負けるな!」という気持ちで彼女のことを気にしていた。

 しかしよく考えてみればそれはもう2年前の話なのだ。何気なく辺りを見渡したけども、もう彼女は卒業している可能性が高い。彼女はブス女子大生ないしブス専門学生、社会人のブスになっていることだろう。ああいう自意識過剰をやめて、自分に合った身なりに落ち着いているだろう。

そんな時の流れを意識することなく、「ブス女子高生居るかな?」と辺りを見渡した。でも、居るのは別のブスだけだった。当たり前のことなのだけれども、周りは時間が進んでいることにハッと気付かされた瞬間だった。

孤独な"どうしようもない系男子"にBe Realを勧めたい

 Be Realとは

 大学生の妹がやっているのを見てBe Realという写真投稿アプリを始めてみた。

妹曰くBe Realは今、最も熱いSNSとのことだ。写真を投稿して友達から反応を貰ったりして承認欲求を満たすという従来のSNSの機能に加えて、Be Realではよりイベント的な楽しみ方が出来る。

Be Realではなんと1日1枚しか写真を投稿することが出来ない。なんて不便なサービスなのだろうか。しかし撮れる枚数を増やす方法が一つだけあって、このアプリを入れておくと毎日、ランダムな時間に写真を撮る合図が通知で届く。その合図は全世界どこに居ても同じ時間に鳴り、見事合図から2分以内に写真を投稿出来れば追加で2枚写真を投稿出来るようになるというわけだ。フォローしている友達が同じ時間に、加工もなしの即興的な写真を一斉に投稿する。そういうイベント的な盛り上がり方が出来て、かつ取り繕わないリアルな写真を投稿するというコンセプトが女子高生を中心に受けているらしい。

 

孤独な方が、Be Realは楽しい

 こんな楽しいサービスなのだが、私のBe Realには妹しか友達がいない。私がどれだけリアルな写真を投稿しても妹しか見てくれる人がいない。というかその妹すらまともに反応してくれない。本来の機能である承認欲求を満たすということができない。

 なのに割とこのサービスを楽しんでいる。というか人一倍楽しんでいると思う。一人ぼっちで写真なんか撮る機会がない"どうしようもない系男子"にこそ是非、このサービスを強く勧めたいのだ。

1日1回強制的に、内カメラと外カメラのリアルな写真を撮らされる。2週間くらい続けているのだが、大体仕事中の営業車内の風景と自分の鬱々とした顔が映し出されている。今日なんかはコンビニのトイレで排便している最中に撮影の合図が来た。「嘘だろ?排便姿を妹に晒せるか!」とも思ったが、どうせ反応も貰えないので断腸の思いで排便顔をカメラに収めた。いくら「リアルな写真を」とはいえ多数の友達が見ていたら排便顔を晒すなんてことは出来ないだろう。この点では孤独である方が良いと言える。排便姿も撮れなくて何がリアルなのかと声高に叫びたいところだ。


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リアルなふんばり系社会人

 

 全く持って記録する必要性がない生活がそこにはある。必要性がないから普通は撮影なんかしないのだけれども、そういうサービスがあるから義務的に撮影している。友達が豊富だったり、面白みのある生活をしている人はこんなサービスが無くても撮影をする。でも我々はなにかで強制されないとそういう無駄なことは出来ない。無駄というのは余白があるということであり、楽しいことだ。そういう意味でこのサービスを本意気で楽しめるのは"ストレージの無駄になる生活"を送る我々の方なのだ。

あと、多分こういう"うだつの上がらない毎日"だと思っているものでも後の自分が見たら特殊性を帯びる。だから気持ちの悪い元気のない顔でも撮影しといて損はないだろう。

 

この記事を読んだ"どうしようもない系男子"諸君よ、無駄な写真を製造しまくって欲しい。女子高生がワイワイはしゃぎながら貴重な青春の1ページを投稿するサービスの片隅で、相当量の"気持ち悪い写真"が人知れず連投されているなんて夢のある話じゃないだろうか(?)

ちんちんがたつ

 お恥ずかしい話であるが、3ヶ月くらいの間まともに勃起が出来なかった。まあ勃起を使う機会なんて風俗や自慰行為のときくらいだから、別に生活に支障はないのだが。でも「勃起出来る生活」と「勃起出来ない生活」どっちを取るかと言われたら当然前者なのだ。「もしも女の子とそういう事になったら出来るんだぞ」と可能世界の入口に勃起は連れて行ってくれる。「もしも」すらない生活は非常に空虚なものだ。

 僕が大学受験で浪人していたとき、勃起という生理現象をとても煩わしく感じていた。自慰行為をする時間を全て勉強に充てたら東大に合格することも容易いと思っていた。つまり想像を絶する回数の自慰行為をしていた。性欲という業に縛られて、僕の人生は立ち行かなくなっている気がしていた。でもいざ満足に勃起も出来なくなると、生活全般の活力がなくなることに気付く。活力が先か勃起が先かは分からないけど、明らかにこの2つは相関関係がある。朝、出社して会社のトイレに入って洗面所で自分の顔を見る。するとそこには勃起しなそうな表情の男の姿があった。それくらい目に見えて容姿に変化があった。折角なら、女性の事務員に「大丈夫?勃起しなそうだね」と声をかけて欲しかったが、もちろんそんなことはなかった。

 

 再び勃起出来ることに気付いたのはいつもの自慰行為のときだった。(勃起が出来ないと言っても全くしないわけではなかったので、流れ作業的な自慰行為はずっとしていた)

いつも通りアダルトビデオを見ていると、格段にその中に入り込めた。熱意のある視聴とでも言うのだろうか、とにかく釘付けになった。あの夜の自慰行為は人様に見せても恥ずかしくない立派なものだったと思う。自信を持ってそう言える。(自慰行為自体が恥ずかしいものという議論はひとまず置いておく)

 このようなことがあって現在は勃起出来る日々に感謝し、噛み締めながら過ごしている。原因は仕事上のストレスであったことは言うまでもない。そのストレスの原因だった事柄が解決はしてないけども過ぎ去って、僕のちんちんは生き返った。でも相変わらず、朝に鏡を見ると勃起出来なそうな青年が立っている。どうやら容姿の変化は勃起の有無のせいではなかったらしい。まあしかし、「能ある青年は勃起を隠す」という言葉があるように不能を装っていた方が良いのだと自分に言い聞かせている。もし「大丈夫?勃起出来なそうだね」と心配されたときに「いやいや、出来ますよ」と顔つきを変えて、驚かせてやろう。兎にも角にも、今は活力がある。久しぶりにマッチングアプリで女の子と食事に行ってやった。もちろん失敗したのだけれども。失敗した時は勃起していた方がよりダサくて惨めである。そのダサさは好きではないけど嫌でもない。そういう有意義なダサさもなくなってしまうのだから不能は出来るだけ避けたいところである。

強いて言えば趣味は"ラジオ"

 「趣味は何?」と聞かれると返答に困る。適当にコンテンツを見たりしているが趣味と語っていいほど現在進行形で熱意を向けているものはないんじゃないかと考えすぎてしまう。かつての僕だったら妄想あるいは、それに付随する脚本書きなんてものが熱意の中心だったと思う。

しかし就職をしてからというもの、フィクションはあくまでフィクションという考えが芽生えてきて生活の中心が現実世界になってしまった。そんな中で強いて、趣味を言うなら「ラジオ」という答えになる。

 

 昨日は、"オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム"というイベントに行った。東京ドームという箱はラジオイベントとしては規格外のキャパシティである。会場に5万3000人、配信やライブビューイングも合わせて16万人があのライブを見ていたというのだから驚きである。

会場に着いたときラスタカラーのグッズに身を包んだ多勢を見て、正直その勢いに引いてしまった。私にはない熱意を向けた趣味を感じた。普段一人で、ボケーっとしながら聴いているラジオ。オードリーの二人の会話をコソッと盗み聞きしているような感覚だ。こういう光景を見ると、あの放送が自分が思っていたよりも開放的だったことに気付く。同じ放送を共有出来ている嬉しさ半分と、自分だけのオードリーという特別感が薄れてしまう寂しさ半分という変な気持ちだった。

 

  イベントの開演後、オードリーの二人が出てきてラジオブースを模したセットに腰をかける。東京ドームでいつもの空気感のトークを繰広げる。いつもはイヤホンを通して耳をすまして聴いている二人の声。それが今は、目の前に居る。開演前はざわざわしていた気持ちが一気に落ち着く。声を聴くだけで落ち着くなんてちょっと宗教じみていると思う。イベント発表から当日まで1年近くあったため、その光景をずっと想像していた。強いて言えば趣味はラジオ。そこに強い熱意などない。でもいざ目の前で声を聴くと、この人たちのラジオを随分と、楽しみにしてきたんだなと感じる。そんな不意の気づきで、トーク中に涙が出てきてしまった。「お笑いのトークをしている人の前で泣くのはマズいだろ」とも思ったがほんとに止まらなかった。私の生活を実は支えていた2人がそこに居ることが感慨深かった。また何より「そんなことを会場の皆が感じているのだろうな」という一体感が堪らなかった。

 

 話は戻り、やっぱり私には何かへ特段の熱意はないと思う。強いていう趣味の「ラジオ」だってなんとなくぼんやりと聴くだけだ。不意に泣いてしまったからといってもそこはブレない。

でもラジオパーソナリティとラジオリスナーの関係というものは不思議なもので、アイドルオタクがアイドルに向けるようなほとばしるような熱意はなくてもなんとなく聴いてなんとなく親しみを持っている。もちろんそこにほとばしる熱意があるに越したことはないのだけれど、そうではなくても聴いてるだけで輪に入った気分になる。パーソナリティへ「好き」という気持ちを返すわけでもなく空気感を受取るだけだ。でもそれが本当に心地良い。全くもって、ほとばしらないけども6年間も番組を聞き続けている。今回のドームイベントでちょっとだけほとばしったからこうやってブログに書いている次第だ。

15年の歴史ではまだまだ新参リトルトゥースだけど聞き続けます。

 

電車

 片田舎で暮らしていると中々電車に乗る機会がない。駅まで徒歩10分のところに住んでいるのにも関わらず、何をするにも車の方が便利だ。僕が比較的早く退社出来た20時代なんかは20:16の発車をもって水戸駅に電車が来ることはない。ウキウキで会社を出たはいいものも、結局家に帰るのはいつもと変わらないという事態になる。残業の苦しみから開放される為に車はマストなのだ。もっと言えば、休みの日に水戸駅の駅ビルに行くのにすら車を使う。電車代より駐車場代の方が、安いのだ。嗚呼、県庁所在地たる都市でこんなことがあって良いのだろうか。

 ただ電車も気分でたまに使う。車で家と会社の往復をしていると、車の中で1人だからこそ無駄な考え事をしてしまう。その日やらかしてしまったことを振り返り、顔をクシャっとする。言葉にならないうめき声も出してみたりする。自分を追い詰める時間になる。ところが、電車だとどうだろう。電車にはJKや、大学生にOLとたくさんの僕の性的対象が居る。自意識過剰なので、なんとなく格好つける。イヤホンして陰鬱な表情を浮かべたり、自分の世界に入っている感じを出す。痴漢行為に習って僕はこれをシャイ漢行為と呼んでいる。そんなことで大忙しだから、自分のことを追い詰めている余裕なんてなくなる。これが僕の電車のライフハックだ。

 このライフハックで僕が恥ずべきことは自意識過剰なことでも、女好きなことでも、落ち込みやすい性格を持っていることでもない。それはただ一つで15歳から25歳の十年間でカッコつけ方が変わっていない点である。ちょっと闇ある感じって格好良くないか。いや~、にしても十年間か。ゾッとする話である。

本当に楽しくない

 社会人生活が退屈なことは言うまでも無い。ペンネームとして"楽しくない"を名乗っている筆者ともなれば、そのことは殊更当然のことである。大学2年生の夏休みに楽しくない氏としてのキャリアを歩み始め、「鬱屈とした心持ち」だけをアイデンティティとして今日まで生きてきた。しかしながら、大学時代は事象だけを見れば本当に楽しいものだった。僕の大学生活はサークル活動と、ゼミでの研究、長期休みの旅行それと何人かの女の子に彩られていた。ただ、その当時の鬱屈とした思いは本物であった。楽しい環境に居ながら、自分の内向的な性格のせいで楽しさを存分に味わえていないという感覚があった。多分何度タイムリープして、大学生活になってもああいう鬱屈を繰り返す気がする。楽しいのに内に潜ってしまい、しんどい。そういう自戒の意味を込めたペンネームだった。あと自虐風自慢的な意味合いも多分に含んでいたかもしれない。逆張りが好きなのだ。楽しいはずの環境を「楽しくない」と嘆くことに意味があった。

 時が経ち、楽しくない氏も社会人2年目をそろそろ終えようとしている。大学時代と違って楽しいわけがない環境に身を置いている。であればお得意の鬱屈を発動させて、さぞかし社会人生活を満喫していそうに思える。だが実際は鬱屈すら出来ていない。社会人として、ハードワークをして家に帰ったときに鬱屈を嘆こうとすると心の奥深くから崩れ落ちそうな感覚になる。

 今まで磨いてきた自虐スキルが全く役に立たない。根暗大学生という世界観での自虐としがないサラリーマンという世界観での自虐は相容れないものがある。一人で喫茶店で本を読んだりしてどんより休日を過ごすのは良いけど、温浴施設に出掛けてサウナに入って清々しい気分になるのは何故か許せない。ナイトクラブに行ってお酒を飲んでみっともなくはしゃぐのは良いけど、ソロキャンプで夜空を見ながら焼いた肉と一緒にビールを飲むのは何故か許せない。どっちも「楽しくない」と自虐する事ができるけど前者の方がより鬱屈していられる。最近は後者をよくやるのだが、その度にこれまでのアイデンティティと辻褄が合わないぞと感じる。でも、日々の疲労を考慮すると自然に足が向くのは後者なのだ。鬱屈を自分が許せる形で嘆きたい。でも、鬱屈に耐える精神力が今はない。本当に苦しいのだが、人に相談して上手いこと言語化出来る気がしない。分かりにくい悩みが、増えていく。

ミトランティスマザー

 毎年恒例の年末が来た。「2023年も終わりかぁ」という感覚よりも恒例行事という感が強い。これは単純に僕が年齢を重ねたからなのか、それとも単調な生活の成果なのかは分からない。昨日が仕事納めということでそのまま帰省をしようかと考えた。しかしながら僕ももう大人なので一つやるべきことがあることに気付く。それはお世話になった人へのご挨拶だ。これをせずに年を越すなんて、恥ずかしくて出来ない。社会人になってからの2年間で僕は、礼節を大切にすることを学んだのだ。

 ということで帰省を1日半遅らせることを決めて僕は、電話をかけた。

 

「あ、もしもし〜明日、ちづるさん指名で入りたいんですけど空いてますかね?」

 

ちづるさん。巨乳ヘルス"ボインマックス水戸店"で働く、38歳のIカップ風俗嬢だ。僕は彼女のことを水戸のママと呼んでいる。帰省してマジママに会う前に水戸のママに会わないと歳は越せない。そう思ったのだ。

冗談抜きにして、彼女には今年お世話になり過ぎた。月1ペースで指名をして身を委ねていた。きちんと若者とおばさんという距離感で接してくれるところが気に入っている。若い風俗嬢相手にちょっとカッコつける悪癖が出ないで済むからだ。僕の精神の安寧は、彼女のおかげだったのだ。プレイの詳細を語るのは本文の趣旨から逸れてしまうので控えるが、水戸のママという称号に相応しいものであった。きちんと感謝も伝えながら店を後にした。

 

しかしながら、よく考えると38歳はママではない。13歳しか離れていない。少し現実を見たほうが良いだろう。恥ずかしいことに年齢自認が15歳の少年なのである。言うならばトランス少年だ。まさか読者の方は差別なんてしないですよね?辛辣な言葉が返ってくるのは分かり切ったことなので返事は聞かないでおく。トランス少年を唯一差別しないで居てくれるのが ちづるさんということだ。年末の挨拶をしないことを恥じる前にこっちを恥じた方が良い気がする。大学生気分どころか、中学生気分すら抜けていない。来年は、高校生気分に成長できたらと思う。土佐兄弟tiktokを予習しておこう。

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