ちんちんがたつ

 お恥ずかしい話であるが、3ヶ月くらいの間まともに勃起が出来なかった。まあ勃起を使う機会なんて風俗や自慰行為のときくらいだから、別に生活に支障はないのだが。でも「勃起出来る生活」と「勃起出来ない生活」どっちを取るかと言われたら当然前者なのだ。「もしも女の子とそういう事になったら出来るんだぞ」と可能世界の入口に勃起は連れて行ってくれる。「もしも」すらない生活は非常に空虚なものだ。

 僕が大学受験で浪人していたとき、勃起という生理現象をとても煩わしく感じていた。自慰行為をする時間を全て勉強に充てたら東大に合格することも容易いと思っていた。つまり想像を絶する回数の自慰行為をしていた。性欲という業に縛られて、僕の人生は立ち行かなくなっている気がしていた。でもいざ満足に勃起も出来なくなると、生活全般の活力がなくなることに気付く。活力が先か勃起が先かは分からないけど、明らかにこの2つは相関関係がある。朝、出社して会社のトイレに入って洗面所で自分の顔を見る。するとそこには勃起しなそうな表情の男の姿があった。それくらい目に見えて容姿に変化があった。折角なら、女性の事務員に「大丈夫?勃起しなそうだね」と声をかけて欲しかったが、もちろんそんなことはなかった。

 

 再び勃起出来ることに気付いたのはいつもの自慰行為のときだった。(勃起が出来ないと言っても全くしないわけではなかったので、流れ作業的な自慰行為はずっとしていた)

いつも通りアダルトビデオを見ていると、格段にその中に入り込めた。熱意のある視聴とでも言うのだろうか、とにかく釘付けになった。あの夜の自慰行為は人様に見せても恥ずかしくない立派なものだったと思う。自信を持ってそう言える。(自慰行為自体が恥ずかしいものという議論はひとまず置いておく)

 このようなことがあって現在は勃起出来る日々に感謝し、噛み締めながら過ごしている。原因は仕事上のストレスであったことは言うまでもない。そのストレスの原因だった事柄が解決はしてないけども過ぎ去って、僕のちんちんは生き返った。でも相変わらず、朝に鏡を見ると勃起出来なそうな青年が立っている。どうやら容姿の変化は勃起の有無のせいではなかったらしい。まあしかし、「能ある青年は勃起を隠す」という言葉があるように不能を装っていた方が良いのだと自分に言い聞かせている。もし「大丈夫?勃起出来なそうだね」と心配されたときに「いやいや、出来ますよ」と顔つきを変えて、ボロンと出して、驚かせてやろう。兎にも角にも、今は活力がある。久しぶりにマッチングアプリで女の子と食事に行ってやった。もちろん失敗したのだけれども。失敗した時は勃起していた方がよりダサくて惨めである。そのダサさは好きではないけど嫌でもない。そういう有意義なダサさもなくなってしまうのだから不能は出来るだけ避けたいところである。

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