“書く”について考える

  最近になって私の好きな“書く“という行為が非常にチープなものになっているような気がしてならない。なんというか以前は自分が日々の生活で感じた疑問や面白いことを一歩引いた姿勢で非常に屈折した記述をすることが出来ていたのだが最近の私の文章にはそれがない。それどころか最近の私は記述によって自己というものを確認している節があり、もはやこのようなブログによる記述なしでは生きていけないようになっている気がする。私は楽しむためにブログを書いているのではなく生きていくためにブログを書いてしまっている。そんな半ば義務状態の心持ちで書かれる文章が面白い訳もなく最近の私はそういう文章を読み返しては憔悴するのだ。いうならば今の私のブログはツイッターなどのSNSで日々投稿され続けている中身のない表層の笑いを追求した短文をただ長々しく書いたものになっている。中身がない上に長いとなっては最悪である。しかし逆説的に言えば中身のなくてもこう長々と書こうと思うあたり私は”書く“という行為を愛しているということになり私は”書く“ことをやめれなくなる。書いては憔悴しそれを埋めるために書き憔悴しという連鎖がどのような結末を産むのかということに関して私は全くの無知である。どこかでブレイクスルーが起きれば良いのだが。当面の間は私の愛するこの行為をがむしゃらにやっておくというのが幼稚な私が出したひとまずの答えなのである。

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