あの部屋を分譲で貰いたかった

  僕は先月住んでいたアパートから退室した。社会人として上京して7年もの間、僕はこの築50年をゆうに越える四畳半のアパートに住み続けた。駅から徒歩10分でそこから職場まで1時間かかる。その気になればもっと綺麗で家賃の高いアパートに引っ越すことが出来たけど不思議とそうはしなかった。僕は何故だかあの場所をひどく気に入っていた。特段に家賃が安いわけでもないし、収納も全然足りなくて事あるごとにブックオフに文庫本を売りに行く始末だ。風呂もわざわざ2分歩いて銭湯に行かなければならない。本当に不満が多いのだけれど僕はあの場所を離れようとは思わなかった。

  僕は3年前にとある県に旅行に行ったときにとある居酒屋でとある女性に出会った。その女性に恋をした。彼女と付き合ってから部屋に来る度に「なんでここに住んでいるの?貴方の月給だったらもっと良いところに住めるでしょう。」と彼女は頻りにあの部屋のことを不思議がった。その度に僕はあの部屋が好きなこと曖昧な言葉で説明した。彼女は一度も納得したことなんかなかったと思う。恐らく彼女は僕の職業を疑っていた。だけどその疑いもすぐに晴れて今月初めに僕と彼女はあの部屋がある街の役所に婚姻届を出しに行った。彼女に受け入れられたときは29年間で味わったことのないくらい幸せだった。当然の流れとして僕と彼女は一緒に住むことになる。四畳半の部屋は僕と彼女で住むにはあまりに狭過ぎたし、あんなみすぼらしい部屋に彼女を住ませるわけにはいかないので新しい部屋を借りるという話になった。しかしあのお気に入りの部屋を失うのが怖かった。僕の不安でいっぱいだった上京を支えてくれて、いくつかの失恋を慰めてくれたあの部屋を。なによりあの部屋に他の人が住むところを想像できなかった。幸い安アパートに住み続けたお陰か僕には貯金があった。だから僕はあの一室を分譲で貰えないか大家に相談した。書斎としてあの部屋を使いたくなったのだ。妻は快諾してくれた。その話を持ちかけると大家はとんでもなく呆れた顔をしていた。結局交渉は決裂し、僕はあの部屋を出ていくことになった。せめて借り続けさせてくれないかと言ってみたが僕が交渉のときに大家に多くの罵詈雑言を浴びせた所為でそれも決裂した。

 僕はあの部屋を自分のものにしたかった。大人しく家賃を払い続けていれば今後もあの部屋の幸せを受け続けられたことだろう。しかし僕のつまらない欲望でそれも全てを失ってしまった。あの部屋を独占できたらどれだけ嬉しかっただろうか。あの部屋のすべてを手に入れられなかったとしても僕はそれで満足するべきだったのだ。あの部屋は賃貸で住むくらいがちょうど良かったのだ。そういう関係だったらここまで傷つかずに済んだだろう。だけどあのときは突発的に大家に交渉せざるを得なかった。それくらい僕の独占欲は肥大していた。僕はまた別の部屋で妻との幸せな家庭を築くのだが結局あの部屋には恒久に戻れない。だから僕は今日も仕事帰りに新しい住人がいるあの部屋がある街の近辺を散歩する。

 

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