音楽をプレゼントした時代

f:id:kuma2909:20200427174028j:image 

  僕はストリーミング音楽サービスの音源をパソコンで流して、2000年代製の古いミニコンポに繋げて、それとセットのスピーカーに繋げて音楽を聴く。わざわざミニコンポのアンプ機能を使用するのは少々古臭いけどもそれが僕のこだわりである。それでもストリーミング音楽サービスを使っているところは最先端であり、褒めて頂きたい。僕は音源を所持していないのだ。しかしこの所持していないというのは僕たちの音楽を介したコミュニケーションに支障をきたす訳で、大昔だったら人はレコードで音楽を聴いていた。そこに記された凹凸で音がなる。凹凸を持っていることが音源の所持だった。凹凸はモノだ。モノは往々にしてプレゼントされる。だからレコードは自然の流れで人に贈られた。音楽を人にプレゼントするなんて今の僕からしたらとんでもないことだ。音源がデジタルデータになってから、音楽は徐々に贈られなくなった。この辺の時代は僕自身が経験しているからよく分かる。CDは音源を記録されただけの器でそのものに価値はない気がする。だけれどもまだ実体があるだけましだった。あのときはまだ貸し借りしていた。今となっては音楽がネット中に転がっている。音楽をプレゼントしようと思っても、モノがない。これは悲しいことだ。

 村上春樹の小説の中では女の子にレコードを贈るシーンがよく出てくる。現代に置き換えるとSpotifyで作ったプレイリストを送るみたいなものだろうか。確かに似たようなことは出来る。でもどこか確実に違う。これは僕の価値観がデジタルに対応出来ていないだけだろうか。僕はあの凹凸を聴いたこともないけど、あれの連続性に惹かれる。小説の文字を見ながら凹凸を介した音楽のプレゼントが出来る時代に思いを馳せる。今や音楽をプレゼント出来るのはバンドマンの特権だろう。「君にこの歌を贈る」なんてくさいセリフバンドマンじゃないと口が裂けても言えない。いやバンドマンでも言えないか。いや口裂いてでも言わせる。そもそもバンドマンの友達が居ない。

にほんブログ村 大学生日記ブログ 文系大学生へ
にほんブログ村 jQuery('.icon-hamburger').on('click', function() { if(jQuery('.menu-container .menu').css('display') === 'block') { jQuery('.menu-container .menu').slideUp('1500'); }else { jQuery('.menu-container .menu').slideDown('1500'); } });