「整う」に感じる違和感

ちんけな抵抗

 僕は自分の感じていることをありモノで語ることがあまり好きじゃない。簡単に言うと旅行先で見たレトロな街並みを「エモい」で片付けてしまうのが嫌いなのだ。これは僕が独特な感性を持っているからとかじゃなくて、自分が普通の人間であることを知っているからこそせめてもの抵抗でこういうことをしている。あるいはそういう言葉を使うと言葉に感覚を強制されている気がするというのもあるかも知れない。

 

「整う」は丁寧すぎる

最近困っているのはサウナ後である。「整う」という表現があるがあれにはどうも納得が行かない。サウナ後の感覚を説明するには少々丁寧過ぎる気がしてならない。サウナ後に水風呂に入って椅子に座ってクテッとするとき僕は妙な後ろめたさを感じる。人前で気持ち良くなっちゃってすみません、情けない顔晒してすみませんと思う。第一、あんなに暑いサウナと冷たい水風呂を耐えてまで得たいと思えてしまう快楽なんてまともなものなはずがない。あの椅子に座っている者は本来であれば「身体的快楽に極めて強欲」というレッテルを貼られて然るべき存在だ。偏見だがサウナ好きは風俗も好きだと思う。僕は間違ってもそんな快楽を「整う」とかいう言葉で正当化することは出来ないでいる。あの感覚を正確に表すのは難しい。いっそ難しい言葉じゃなくて「気持ちいい」と正直に言った方が良いと思う。書いていて思ったのだが世の中の人はあの感覚への後ろめたさから「整う」という言葉であの快楽をやんわり誤魔化しているのではないだろうか。であれば納得がいく。でも言葉が先行して本当に自分の身体が整っていると勘違いする人には違和感を感じる。

 

あとがき

もはやこんなのはクオリアの話で中には本当に整っていると感じている人も居るのだろう。僕がタバコなり射精なりの身体的快楽に慣れ親しみ過ぎた故にこんな感覚になるのかもしれない。だから結果的に僕が「整う」に異議申し立てることは、自分がそういう不潔な人間であることを表明することと同じだ。語れば語るほどに墓穴を掘るとは哀れなものである。僕が願うところはこの記事を読んだサウナ女子が僕みたいな感覚に気付いてくれて、整いながら辱めを感じることである。自分が身体的快楽に極めて強欲ということを踏まえて生きてくれれば幸いだ。長々と書いたがこの記事は単なるセクハラに落ち着いた。ああ恥ずかしい。

見栄っ張り

 私のバイト先の飲食店では手書きで注文を取る。その時に客の属性を男、女、子に振り分けて記入しなければいけない。ライスの量をそれぞれ分けているからである。そこで非常に困るのは、小学校高学年くらいの女の子が居た時である。

 恐らくその子は大人と同じくらいの量を食べることが出来る。なので「女」と属性分けするべきでだろう。しかしそれではまるで私が小学生を女として見ているみたいではないか。厨房から「この異常性癖童貞が!」という声が聞こえる気がする。確かに胸の膨らみは既にあって、顔も大人の女性の様相を呈してきている。髪も手入れがなされ綺麗に伸びているし、スラッとした脚も持ち合わせている。だからといって小学生を「女」として見るのはヤバいだろ。小児性愛は擁護のしようもない劣悪な趣味趣向なのだから。バイト先にそんな誤解されてしまっては私の沽券にかかわる。私は見栄を張るために自分の様々な意に反してその女を「子」と属性付けることにした。ライスの量に関してクレームが入ったのは言うまでもない。

世の中は不公平

 LINEのメッセージが来る。「うーん今はちょっと忙しいし面倒くさいし返信は後でいいかな」なんてことを考える。そしてその日の深夜に遅れ過ぎたことに気付く。だんだんと相手の信用を失っていくのだ。当然私のせいである。

 LINEのメッセージを送る。全然返信が来ない。もしかしたらこの食事の誘いをあちらは乗り気じゃないのかも知れない。であれば申し訳ないことをしてしまった。当然私のせいである。

韻を踏むとわけわからん言葉が出てきて面白い

最近、YouTubeでラップバトルの動画を見ている。そこで「韻を踏む」というよくわからない文化に出会った。「韻を踏む」とは母音が同じ言葉を二つ以上並べることらしい。ラップには「韻を踏む」言葉がビートに織り交ぜられており、非常に語感が良くなる。

 

例えばはてなブログの母音はあえあうおうである。韻を踏める言葉として壁がくぼむがある。日常生活で「壁がくぼむ」ことを考えるのは、壁がくぼんだ時くらいなものである。だが韻の作用により「はてなブログ」を考えるときに「壁がくぼむ」のである。韻の面白さはこの意味的に無秩序な言葉の発想が出来ることにあると思う。何の関係もない言葉を韻が引っ付けるのだ。私はこの作用を万有韻力と名づける。

 

また万有韻力によって出来上がった意味的に無秩序な言葉に強引にストーリー付けするとより面白くなる。

先日、魑魅魍魎(ちみもうりょう)で韻を踏める言葉を考えていたときの例を示そう。

  • 魑魅魍魎
  • 時期早々
  • インキン膀胱
  • ギリ早漏
  • 金品強盗
  • 近畿旅行

 

私のストーリー付けはこんな感じだ。

高い金を叩いて風俗嬢で童貞を捨てた主人公。しかしその姿は魑魅魍魎と言って差し支えないほどに醜いものであった。ことが終わった直後に「きみ、ギリ早漏だね」などと嘲笑われる。しまいにはインキンに感染していることが明らかになる。彼は「時期早々だった。俺はまだそういう器じゃない。」と自分を卑下する。リベンジをするためのお金欲しさで金品強盗までしてしまう。そして逃亡と娯楽を兼ねて行った近畿旅行で想像を絶する出来事が起きる…。

 

こんなヘンテコな物語である。こんなものは普通シラフじゃ思い付かない。だけど韻を介すことで私みたいな常識人でも非常識物語を想像することが出来る。近畿旅行での詳細は自分次第である(物語を全て韻に任せるのは不安なため) あくまであらすじを考えるのには使えるだろう。

俺にゃ荷が重い

本日2カ月以上営業を止めていた、アルバイト先の飲食店に行った。10月から営業を再開するにあたって掃除をするためだ。いざ行ってみると私以外のアルバイトが誰もいないことに気づく。そして店長に会う。店長は少しやさぐれた感じに見えた。久しぶりに会う店長との会話は少し緊張した。

 


「お久しぶりです。」

「楽しくない君、これバイトの保証ね。」

何もしていない2カ月分のバイト代が入った封筒を貰った。

 


「あれ楽しくない君には言ったっけ?あー言ってないよな。」

店長は急に辿々しくなる。

「うちの女房…亡くなっちゃってね。」

店を休止していたのは奥さんが病気をしたためであった。そしてことの顛末を冷静に教えてくれたのだ。

 


「あ、そうだったんですか…」

「色々迷惑かけたけどこれからもよろしく頼むね。」

「いえいえ、とんでもないです。よろしくお願いします。」

 


私は人の死を弔う言葉を何一つ持っていなかったのだ。気を遣う言葉が何一つ出てこなかった。

この2ヶ月人生で一二を争う苦痛を味わっただろう店長を想像すると本当に心苦しかった。そして同時に思った。

 

「俺にゃ荷が重いよ〜」

 


何か気の利く言葉が出てくるわけではないし、若者特有の明るいパワーも持ち合わせていない。休止後初めて会うのは別の人であるべきだった。場を温かみのある感じに出来る存在。そういう人がお似合いだ。でも誰も来ないよりはましだったのかもしれない。まぁそう思わないとやってられない。ポーカーフェイスだが情は人一倍あるのだから。

シャイボーイ同士は壊滅的に気が合わない

 私は典型的なシャイボーイである。ビックリするくらい内向的なのに自分を理解しようとしない他者に対して攻撃的になる。何を考慮したってこんな厄介なやつはいない。しかし世の中には物好きが居るものでこんなシャイボーイと仲良くしてくれる人が居る。そして自分を理解しようとしてくれる人には徹底的に懐く。まぁそう言う人は大抵社交的で私以外にもたくさんに人に興味を向けている。

 で、一番困るのはタイトルにもある通り私と似たシャイボーイと相対したときになるわけだ。シャイボーイは正直気持ちが悪い。色々心の中で思うことがあるくせに、聞かれないことには大したことを喋らない。たまに喋りだしたと思えば、喋りなれていないからか要領を得ないことをベラベラ語りだす。そして相手が喋りに辟易としていることに気づくや否や申し訳なくなって口をつぐむ。こんな面倒くさい奴と仲良くなりたい人間がいるなら教えて欲しい。こんな感じのことを相手も思っていると思う。同族嫌悪の応酬でとても交友関係を結ぶことなんて出来やしない。

デート

デートが下手

私はデートが下手である。今までの人生でどこかに人と出かける経験があまりにも不足していることに原因がある。同性の友人とだってどこか遊びに行こうとなったら戸惑うのだから女の子となんて上手くいくわけがないのだ。同性の友人とならばお酒を仲良く飲むだけで「遊び」が成立する。しかし異性とのデートとなると「お酒」の前に何かが要求される。「デート」は「遊び」に比べて最小構成要素が多いのだ。

行きたい場所なんて存在しない

難しく考えてみたがデートなんてものは基本的にそれっぽいとこに行けば良い。そんなことは分かっている。相手と自分がある程度気乗りして、ある程度ドキドキ出来る場所がベターだろう。一緒にいることが目的なのだから。でも私にはそれが出来ない。THEデートみたいな場所は恥ずかしいし、ある程度も楽しむことが出来ない。人とどこかに行って場を楽しんでいる演技をするなんて不器用な私には難しい。そもそも論として私は恐ろしくインドア派なのだ。外に行って活発に遊ぶのは本望ではない。デートが上手になるためには自分が演技ではなく楽しめるデートを模索するべきだろう。

インドアデートはいやらしい

であれば、インドアでデートをすれば良いという声が出てくる。しかしながら不思議なことに「単なるインドア派」と「デートはインドア派」では全く持ってイメージが異なってくる。私の神聖な「インドア」に何か凄くいやらしい意味が追加される気がしてならない。ただ単に室内が好きなだけで、ただ単に休憩したいだけなのに変な誤解を生んでしまう。また文化的な何かを見に行くというのもインドアデートに含まれるかもしれないが、それこそお互いに興味がなければ成立しない。私がこよなく愛するNTRの展示に興味を寄せる人間がいるのかは甚だ疑問である。難しく考えれば考えるほどデートを行うのは困難な気がしてくるのである。

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