元AV女優

 先日、引退したAV女優のTwitterを見た。現役時代大好きだった女優である。かつてとは変わって中々派手なメイクと個性的な服装をしている。それを見て、アダルト出演時は我々に心底媚びていたのだと気づく。私はピュアであるので、その媚び媚びの姿に気付かないでいた。確かに今の感じを見ると「うわぁ」ってなってしまう。マーケティング戦略として正しいと思う。でも個性出しまくりでも一定の需要はあるのかとも思う。大層売れることはないだろうけども。

 彼女とはVR世界で仲良くした間柄である。リアリティを体感したのだ。実質元カノと言っても差し支えないだろう。きっと。元カノを批判するのは雑魚がやることだ。だからその個性の爆発を応援したいと思う。

アンチ

 僕は常に周りのアンチ的な立ち位置に居ようとする。何もできないからこそ人と違うことをしたいというありきたりなものである。もちろんクラスではイケてる人に文句を言いながら過ごしていた。他のイケてないメンツも同じようにする。でも次第に気づいてしまう不平不満ばかり言う自分らの愚かさに。すると今度はイケてないメンツのアンチになる。そして孤立するのである。

 僕のアンチは信念なきアンチなのだ。ただ単に周りと違う自分を演出したいだけ。困ったのは僕がそれを無意識のうちにやってしまうということだ。駅から大学に通う道、大勢の学生が歩く。授業がある人は急ぐし、暇な人はゆっくり歩く。だから自然と集団は二つに分かれる。遅いグループと速いグループ。気付くと僕はその間を一人で歩いている。そのことに気づくとすごく情けなくなる。自分が暇であっても、授業があってもそうなる。それは意味なく校則を破るような不良と何も変わらない。不良はもう更生してお仕事をしている。僕はかえってアンチ的態度を深く内包している。なんてこった。ワルの道を僕だけが貫いている。

大人になっても

 大人になっても好きなアニメ劇中歌を聴いてその主人公になりきって倒錯しながら帰宅をしたい。激痛社会人でいたいのである。この大人になったらという前提は20歳になってからすごく使い難くなった。まだ自分を子どもだと思っているのかよという冷ややかな視線に怯えながら使っている次第である。18歳のときは子どもの頃という前置きに怯えていた。もう自分のこと大人だと思ってんのかよという冷ややかな視線を勝手に感じていた。でもそのときは大人になったらと自信を持って言えたのだ。

 今は正直どちらも言いにくい。theモラトリアム青年という感じである。多分だけれどこういう悩みって普通高校生くらいのうちに一度や二度出てくるものじゃないのか?23歳を目前として初めて考えることじゃない気がするのだ。以前、大学の演劇サークルで即興劇をやったことがあった。そこで小学生の役を演じた。すると恐ろしいくらいスムーズにセリフが出てくるのである。自分の自然体ってこうなのだと思い知った。それには心底落ち込んだ。賢ぶった言葉を選んでブログを書いてるときの方がよっぽど演技をしていると思う。ほんとに何も成長していない。大人になっても小学生のように振る舞いたいと思うが、気持ちが悪い。

え?まじで?も好きのうち

  僕の精神は割と屈強だと思う。浪人をしてたときは予備校で大した友達なんか出来なかったけどそれなりに一年間勉強していた。今は就職は決まらないし、恋人とも疎遠になったり宜しくないことが続いているけど何故かとても穏やかな気分でいる。これは諦観のあらわれだろうか。

 でもふとしたときに今置かれている様々な現状を顧みて、「え?まじで?」と思ったりもする。しかしこれは僕の人生においては常に付き纏っていた感情だから特筆すべきことではないのかもしれない。多分だけど、今仮に就職が決まってて恋人と順風満帆でも「え?まじで?」と思う瞬間はある。そんなものは幸福に対する逆張りな訳でそれをする自分を気持ち悪く感じる。今の不幸を不幸のまま嘆ける自分の方が好きかもれない。こういう思考が出来るところが精神が屈強である所以なのである。

うま煮とかわ煮

 昨夜、「たらこのうま煮」というお惣菜を母が買ってきた。たらこを甘塩っぱい味付けで煮たものである。この名前に違和感を感じるのは私だけだろうか。うま煮かどうかはこちらが決める。自称をするなと思う。こういうイキリは萎えてしまう性格なのである。腕試しをする意味でたらこを一切れつまんでみる。うまい。米にも合うし酒にも合う良い味付けだ。せっかくうまいのだからわざわざイキらなかったらもう少し気持ち良く食べれたのに。

 こういうことは日常に溢れている。皆さんは村方ののかちゃんをご存じだろうか。犬のおまわりさんを達者に歌う姿が大バズりしたかわいい娘である。

童謡/いぬのおまわりさん/第35回童謡こどもの歌コンクール こども部門・銀賞 - YouTube

 

この姿を見てなんてかわいいのだろうと心を躍らせたのはもう過去の話である。最近はCMやらYouTubeでそのかわいさが作為的に切り取られている。

“ののちゃん”村方乃々佳ちゃんがラップに挑戦 可愛らしい振り付けも披露 『ZABOON』新TV-CM「ザブーンのうた」篇&メイキング - YouTube

 

いうならば「村方ののかのかわ煮」が店頭に並んでいる気分である。品名は「幼児」で十分である。かわいいかどうかはこちらが決めるのだから。

【日記】堕落への道のりは遠い

はじめに

ここ最近私は半ば意図的に堕落を仕向けている。ここでは最近行った2件の堕落的試みを語りたいと思う。それは坂口安吾堕落論に従った結果である。解釈違いも甚だしいかもしれないが。

ソープランド

「楽しくないさん最近どうなんですか?」そんな後輩の言葉がきっかけだった。そこから悪ノリが加速してソープランドに行くことを決めた。どう加速したらそのような話になるのかは私が知りたいところである。そしてその場で今度行く約束もした。日を改め、酒酔いが抜ける。そうするとその約束に対する後悔が大きくなっていた。しかし口だけの人間になりたくないというちんけな抵抗から連絡をとった。しっかりその約束を果たしたのだった。そして果てたのだった。とても楽しかった。うーんこういうのは格好つけても仕方ない。あえてとにかく楽しかったと声を大にして言う。この場合、行動自体は極めて堕落しているのだけれど、約束を守るという堅実性も持ち合わせている。次の日の朝すっからかんになった財布を見ると自分は堕ちきれない性分であることを実感した。別に賢者とかじゃないんだからね。

オールナイト

次の堕落行動はオールナイトのイベントに参加し、朝まで踊り明かしたことだ。結果から言うとこれも特に堕ちきれなかった。そこでは好きだったアイドルが復活ライブを行っていたのだがそれを見て酷く感傷的な気持ちになった。そのアイドルグループは私が高校生だったときに知り、ライブに行くことなく解散してしまった。以降もずっと曲を聞き続けて、私の精神的支柱になっていた。そのことは以下の記事で語っている。

 

kuma2909.hatenablog.com

 

今よりもまだまだずっと幼かった高校時代の憧れを回収し、堕落なんかしている場合ではないという気になった。そのイベントには女性の友人と一緒に参加したのだが、ライブ中もみくちゃになっても身体に極力触れないように努めた。そして帰りの電車では感傷的な気持ちについて語り、お互いの健闘を祈りつつ別れた。堕落なんて一ミリも無かった。しまいには帰った後に数時間の仮眠を取ってから、せっせと卒業論文の執筆に勤しむ始末であった。なんとも情けない話である。

 

堕落するには?

 坂口安吾堕落論では堕落するときの堕ちきれない人間の弱さに注目し、そこから這い上がる活力を説いていた。しかし今の私は堕ちきれないというよりも、少しでも堕ちてしまうのが怖くて細い糸にしがみついているような感じである。堕ちる気も這い上がる気もない。そんな状態が嫌で堕ちようとしたのだが、自分の性分には逆らえなかったという話である。

 一度何もかも失うようなそういった状態になってみたい。万有引力の法則によって万物は下に引かれている。自重を支えようとさえしなければ地にひれ伏す他ない。であるならばこの手元にある、書きかけの卒業論文をゴミ箱に放り込むのが手っ取り早いだろう。しかしそんな簡単なことすら出来ないでいる。そもそも堕落を堕落として認識している者は堕落なんか出来ない気がするのは自分だけだろうか。

胸が締め付けられる瞬間

 僕が胸がギュッと締め付けられる瞬間は恋でもなく、友情でもない。子どもが純粋な思いで何かを欲しがるところを見たときだ。これは時々思い出すのだが、まだ小学生だったころに家族で小さな旅館に泊まったことがあった。僕には5歳離れた妹が居る。当時4歳の彼女が部屋の冷蔵庫にあったラムネを持ってきたのだ。だがそれは有料である。母親はそれに気づくなり、何も知らない妹に否定的な言葉を浴びせていた。結局しょげた顔で元の場所にラムネを戻す彼女。純粋な欲求が打ち砕かれた瞬間である。

 ある程度大人になってくると純粋な欲求というものが一切なくなる。もちろん何かが好きで行動することもあるが大抵の場合そこには邪推がつきまとう。例えば服を買うにしても、純粋に「良い!欲しい!」じゃなくて「これ着たらモテるかな」みたいな思考が介入する。そうなるとその欲求の尊さみたいなものが一気に無くなってしまう。身の回りがチープな感動ばかりになる。

 だから街で何も考えていなそうな子どもを見つけるとワクワクして眼をやってしまう。胸が締め付けられる。少年少女の愛くるしさとその儚さにグッとくる。それはそれは複雑な感動だ。もしかするとその瞬間を側から見たら眼を輝かしていたのかもしれない。でもこうやって深く考えてしまった時点で他の思考の介入は免れない。こうやってまた一つ一つ目の輝きを失っていくのだろう。その成れの果てが大人というものである。つまり自分を客観視することは毒だということだ。

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