楽しくない氏、不幸オナニーをする

「俺来年ニートなんだよね〜」

 と語る男の股間はほとんど臨界状態にまで達していた。不幸オナニー。痛さは承知の上でついやってしまう。自身の置かれた状況をまるで悔いてないかような錯覚に陥る。そして器の大きさを周りにアピール出来ていると思い込む。そんな魔力があるのだ。

 しかし不幸を紛らわせてしまうそれは彼の身体を不健全なものにする。不幸はオナペットのためじゃなくて反骨的な何かを産むためにあるのだ。臨界している場合ではないのである。

 かつて男はこんなんではなかった。女に振られたショックで友人に電話して咽び泣いたこともあった。不幸を不幸のまま噛み締めて、ちんちんはシナシナになったものである。彼が今やっているのはいわばNTR好きを公言するようなものである。寝取られたショックを「まぁこれでも興奮出来ますから」と余裕なフリをすることによる自己防衛である。NTR好き人生ではなくNTR咽び泣き人生を望んでいるのだ

ねぇ、どんな音楽聴くの?

 激安チェーン居酒屋で私は喫煙室に居た。サークルの3人と来たのだが生憎、喫煙者は私だけである。喫煙室には既に大学生2人が煙草を吸いながらお喋りをしていた。

「じゃあ、同学年ってことですか?」

「そうだね、まぁ留年してるから歳はいっこ上かな。」

……

「ねぇ。どんな音楽聴くの?」

少しの沈黙の後にこう言うのである。恐らく今日が初対面か、ちゃんと喋ったのは初めてみたいな間柄だろう。言い回しがかっこ良すぎる。「好きな音楽は?」とか「音楽好き?」とかではなく「どんな音楽聴くの?」だ。音楽が好きなことは当然として、お前の趣向を試してやろうという意図を感じる。

こんなことを私が考えていると、喫煙室のドアが開き隙間から女子がぴょこっと顔を出した。「会計だよ〜」やはり女連れであった。

 モヤモヤしたので煙草を、フィルター間際まで吸う。そして自席へと戻る。冴えない同胞がいるところへ。ビールジョッキに手を掛けながら。席に勢いよく座る。ジョッキを軽く持ち上げて、ちょっと物寂しそうな表情を作って

「ねぇ、どんなAV観るの?」

AVが好きなことは当然として、お前の趣向を試してやろうという意図である。

【感想】セックスエデュケーションS3におけるI love you の重み

 ネットフリックスオリジナルの「セックスエデュケーション」シーズン3を見た。イギリスのティーンの性事情を主題に主人公とその同級生の青春を描いた作品だ。日本に居て、不本意な禁欲主義を貫く我々にとってあのドラマの性に乱れた青春はイカれたものである。誇張された性な気がしてならない。主人公は心の通じ合いを重視する人物だが、シーズン3ではセックスフレンドを持つ。我々の世界だとあまりそういうことはない。純朴な坊やはセックスフレンドを欲しないのである。しかし、セックスフレンド持ったときの主人公の心のもやもやは我々でも共感出来るものがあった。徐々にセックスは良いが心を見てほしいという欲望が生まれる。そして承認欲求でセックスフレンドを恋人にしようとする。

 シーズン3で私が驚いたのが「I love you」の重みである。主人公とセックスフレンドはめでたく恋人になり、電話にて女の子が字幕では「愛している」と言う。その返事として主人公は「うれしいよ」と言う。その後関係は悪化する。「うれしいよ」と言った主人公は「最低なクズ」だと皆に言われる。日本語だとそんなに違和感はない気がする。むしろ「愛している」に対してオウム返しをする方が変な気もする。しかし「I love you」は真剣に返さなきゃいけないらしい。そもそも日本語では電話であまり「愛している」なんて言わない。僕だけなのだろうか。

今年のダサエピソードベスト3

今年のダサは今年のうちに…

 

こんな言葉があったような、なかったような。

今年も色々なことがあった。総括すればカッコ良くなかった一年である。

来年こそはカッコ良い人間になるべく今年のダサを成仏させたい。

 

ダサランキングベスト(ワースト)3

 

選考基準はカッコよくいようと思ってたのにダサくなってしまった経験とします。なので、たとえば「彼女持ちの友達に飲み会の場でプロレス的にキレ散らかした」みたいな意図的なダサは選考から外します。

カッコよくいたいという思いが強ければ強い程

結果としてのダサさが醜ければ醜い程ダサいエピソードです。ここにて成仏させて下さい。

 

第3位 アートの展示会

 6月某日、美大に通う女性の友人がアートの展示会を開くというのを聞き電車に乗って中央線の武蔵境駅まで行きました。そしてインスタグラムのDMで行くということを伝えました。展示会場までは徒歩10分くらいの道のりです。武蔵境周辺の街は何かのダンス教室や、演劇の看板たくさんあって品の良いサブカルチャーの街という印象を受けました。そして会場のある建物に到着します。会場に着くと美大生らしい服装と髪型に包まれたいけ好かない男が受付をやっていました。来場者は私一人だけでした。私が来ているのにスマホをいじり続ける彼。仕方なく私から声をかけました。すると冊子渡されました。「芸術とは自己の内面世界を表出する行為だ」と冊子に書かれていました。モヤモヤしましたがそんなことはどうでも良いのです。私は友人とその作品に会いに来たのだから。奇想天外な作品が並ぶ中一目散に友人の名前が書かれた作品の前に行きました。説明書きには「私の抽象世界について」という題目が置かれていました。悲しくなりました。

 私が鑑賞して感傷的な気持ちになっている中、隅の方ではクリエイターの方々が談笑をしていました。その中には友人の姿もありました。私は何も声をかけることなく一人で帰りました。DMでは「めっちゃよかった笑」と送りました。

 

第2位 ワークショップドギマギ

 10月某日私はワークショップ型の授業に出席していました。そこでは演劇や、映像など色々なことを好きなようにさせてくれるので単位も必要ないのに好き好んで行っていました。その日のワークショップの内容は少し変わっていました。男女ペアになって行うものです。男女の間に1.5m程の細長い木の棒を用意し、それをお互いのへその下あたりで挟んで運ぶというものでした。男女が木の棒の端と端を押し付けあう形になるのです。この作業は簡単そうに見えて困難がたくさんあります。相手が押してくるのに合わせて自分が引かなければいけませんし、相手を信用して押さなければいけません。

 私のペアは2年生の緑髪の子でした。相手はガンガン私の方に迫ってきます。私もっそれに合わせて後ろに下がります。ここまでは順調でした。私が押す番になります。すると歩幅が全く合わずにすぐに棒は床に落ちました。気を取り直してもう一度。私は彼女の目を見てゆっくりと進みます。「遠慮しないでグイグイ来てください」彼女が言います。それでもやっぱり私達の間の棒は落ちてしまうのです。

 私はこのワークショップで息切れを起こしていました。大した激しい運動ではありません。他にこんな息を乱している人は居ません。この棒は可視化されたコミュニケーションだったのです。相手に合わせることは出来るけど、相手を信用して押し付ける事はできない。棒が落ちるたびにコミュニケーションが破綻していく。「ドン」という床の響きはとても情けないものでした。あと女の子に棒を突きつけるという構図が実に男性にとって不利ではないかとも思いました。

 

第1位 殺すぞガキ!

 12月某日、私はアルバイト終わりに自転車で家まで向かっていました。大通り沿いのガストの前を通りかかったときにカップルと思しき同年代の男女が大きな声をだして喧嘩をしていました。男は女を殴っていました。私はチラっとその様子を見ていると、通る瞬間「おい、ガキ見てんじゃねー殺すぞ!」と罵声を受けました。私はそのとき少し酔っ払っていました。だから不意に「ガキじゃないです、23歳です!」と反論をしました。絵に書いたような逆なでしました。男はとんでもない速さで走って私を追ってきました。自転車でなかったら私は死んでいたことでしょう。

 その後心臓がバクバクなり、近くの公園のベンチで休みました。同年代にガキだと思われる未熟さ、それを過剰に気にする自分の小ささ、女を殴る男を制止する考えが浮かばなかった雑魚さを感じ、理不尽な恫喝も受けました。アルバイトをしていただけなのになんでこんな目に合わなきゃいけないのか。そしてコミュニケーションが出来ず、女の子にも話しかけられない。色々なことを踏まえて23歳のガキは公園で号泣したのです。

 

以上が今年のダサです。洗い落とせました。綺麗な精神で来年を迎えられることを快く思います。

エッチな夢と気狂い

 自室で夜、寝ている。非常にエッチな夢が佳境に入ると同時に目が覚める。浪人をしてた1年間好きだった女の子にクンニをしている最中であった。当てもなく膨張する息子に情けなくなった。

 

付けながら寝ていたワイヤレスイヤホンが布団の上に落ちていて青い光の点滅が天井に反射する。再度耳に戻すとオードリーのオールナイトニッポンが流れている。たまにある「夜が長い」という現象。まさしく今日がその日であった。必死に若様のフリートークを聴きかじるがどうも集中できない。頭の中が色々な嫉妬に支配されていて、ただただ唸ることしか出来ない。点滅が鬱陶しい。布団からゆっくり這い出てロフトベッドの梯子を一歩ずつ下る。そして下の階に。

 

時刻は午前2時。リビングがまだ明るかった。妹がソファーで寝ている。手元のスマホからは人気YouTuberの騒がしい声が流れていた。「ちゃんと布団で寝な」と優しい声で起こす。寝ているときの普段とは違いおとなしい18歳の妹を見ると彼女が赤ん坊の頃を思い出す。さっきまでの唸りが嘘みたいだ。彼女は眠そうに目を開けて、無言で化粧を落としに洗面台へと向かう。

 

特にすることもないので換気扇の下でタバコに火をつけた。ゆっくりとひと吸い。

「うぁぅあ」とまた唸る。

 

最近僕は気狂いを起こしている。停滞し続ける自分と今日も進む周りを見て悲しくなる。ブログを延々と書き続ける者が居れば、外の世界と向き合って興味を伸ばす者がいる。いつまで経っても精神性が未熟なのだ。そしてそのことを憂いて気狂いを起こす。気狂い「になる」んじゃなくてそれを「起こす」のだ。気狂いになった人は自分を気狂いだとは思えない。

 

でも前よりは取り繕えるようになった。人前では気狂いを起こさない。あるいは妹を起こしたときのように人と接すると気狂いが引っ込む仕組みなのかもしれない。僕の人生において気狂い期は頻発してきた。それは大抵、時間と語りで解決する。そういうときの語りは取り止めのない内容になる。

たまに脳が麻痺したかのように人と全く喋れないこともあるけど気狂いを見せているわけではない。そういうときは単なる寝不足である。

 

 

300記事を超えて

 僕のブログも300記事を超えてそれなりの歴史が出てきた。歴史が増すと全体の重みが増すと同時に一つあたりの記事の重みが減る。僕のブログ友人らは僕程更新をしない。だからこそ、更新をした時の言葉の重みが違う。常日頃から思っていてそれをようやく言葉にして吐き出す、ドロドロな文章がそこにはある。僕が好きな二郎系ラーメンの濃さがそこにはある。それに対して僕の文章は何て薄いんだろう。幸楽苑のような食べやすいラーメン。おばあさんが軽快に啜っているのが目に浮かぶ。だけどそこまでマーケティングが上手く行っているわけではない。誰でも食べ易い無難なものを提供しているのに変に職人意識がある、一番気持ちの悪い料理人。それが僕である。そんなことは分かっているのだけどそれを受け入れていない。僕が大人になるのはそれを受け入れてからだと思う。

せめて対等人間として

 特に信頼関係もない授業で会ったもの同士。お互いの私生活がダサいか、カッコいいかなんて気にしない。気にするのは何が出来るの?なにがしたいの?最低限の考えこそ持っていれば同等の他者として扱ってくれる。その空間が嫌じゃない。大学生活の大半は考えだけじゃザコ扱いされる。手段もなくこういうことがしたいと言っても、軽蔑される。軽蔑も見ようによっては愛の鞭かもしれない。

 だけど僕は愛ではなく、同等に見て欲しいと思う。愛を持つというのは少し傲慢だ。勝手に保持して憐れみつつ愛くるしさを感じる。そんなものをは下等な愛玩動物にやっていて欲しい。同等な他者としてみれないならそれは無礼だ。そんな無礼をするカスは心底見下すし、こちらとしても下等だと思う。こんなわけで自分が下等にならないための努力をしないと交友関係は結べない。

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