最近鼻をほじりながらまぬけな顔でSNSを見ているととあるワードをよく目にする
〇〇は不安よな。
〇〇動きます。
最初に私がこのワードを見たのが7月20日のことで、そのときは日本人はなんて責任感に溢れる素晴らしい人間性を持っているのだと感涙したものだが、この日を境に誰かの不安を救うために動きます宣言は加速度的に増えていった。今となっては些細なこと、どうでもいいことで個々人が動いている。ここには弱者に対する自己犠牲の美徳などはとっくになくてあるのは相手を不安だと決めつけ勝手に動き出してしまう自己中心的な正義心だけである。
この誰かが不安だから動きます宣言に隠れている問題の根は実に深い。この風潮が長期的に続けば、誰もが他者が不安を感じていたら動かなければいけないという空気が日本を席巻しかねない。それはいわば自己犠牲の義務化であり、日本は生きづらい社会になってしまうことだろう。
自分は不安よな。
自分動きます。
といった自分のためになにかをするという行為が否定されてしまっては個々人の自由意志の有無と言った問題にまで発展する。また不安を抱えている人までもが誰かのために動くことを強制されてしまったら元も子もない。
誰かのために動くという行為は実に素晴らしい行為ではあるのだがその動作が本当に必要なものなのか、他に動くべきことはないのかをもう一度冷静になって考えてから動いて欲しい。そうすれば日本はより生きやすい社会になるだろう。